“イルカや鯨は頭が良いから殺したら可哀想? 牛や豚や鳥は毎日、屠殺してるけど可哀想じゃないの? 頭が悪い動物は殺して良いの? 優秀な生き物だけ生かせば良いというのは二十世紀の人類最大の過ちの一つであるヒトラーのナチスドイツが目指した優生学政策に繋がるんだ。 ユダヤ人虐殺政策に繋がるんだ。 白人はオーストラリア大陸でアボリジニ人を虐殺した。それは劣った(優秀でない)生き物は殺して良いと考えたからだろう。同様にカンガルーも虐殺した。 白人はアメリカ大陸でネイティヴアメリカンインディアンを虐殺した。それは劣った(優秀でない)生き物は殺して良いと考えたからだろう。同様にバッファローも虐殺した。 冷静に考えれば、アボリジニ人にもネイティヴアメリカンインディアンにも命があるように、イルカにも鯨にも牛にも豚にも鳥にもネコにも犬にもカンガルーもにもバッファローにもにも命がある。 カエルにも蝶にもトカゲにも魚にも蟹にもコウロギにも命がある。 植物だって声は出さなくても命がある。 これらの命は大切じゃないのか? いや、大切だろう。 では、あなたの命より大切だろうか? それはあなたが決めることだろう。 オイラはどちらも大切だろうと思う。 どちらも大切だろうが、どちらかの命が犠牲になるのであれば、犠牲になる命に感謝と尊厳を表したい。 さて「いただきます」に込められる命への誓いとは何か? 日本で食事の前に「いただきます」と言うのは「(自分の命を永らえる為にここにある命を)いただきます」という意味だと思う。 けしてお食事を作ってくれた人、食事を出してくれた人、お金を払ってくれた人に感謝してるだけでは無いのだ。 その食事を食べられる環境に感謝すると共に、大袈裟に言えば、その食事に捧げられた命に「その命をいただいて、自分の命にさせて戴きます」と言っているのだ。 給食で、お金は払ってるから「いただきます」は言わせません、とか主張する親が居るそうだ。 レストランでも、お金は払ってるから「いただきます」は言わない、とか主張する人が居るそうだ。 言わないのは自由だが、「いただきます」のもう一つの意味である「自分の命を永らえる為に、ここにある命を感謝していただきます」と言うことを知っていたら、言いたくなるのではないか? その意味で「動物や魚は食べません」という菜食主義者は自由だか、植物の命を戴いているのは間違い無い。植物が声を出さないから、痛みを表現しないから「可哀想じゃない」と思っているだけなんだ。 そう言う意味では誰でも、地球上の何らかの命、資源、そういうものを自分のモノとした生きるしかなくて、自分にそんな価値があるのかと自問したくなるだろう。 「頭が良いから食べない」「頭が悪い動物は殺して食べて良い」「動物や魚は食べない」とか言うのは全部、主観的な勝手な考えなので普遍的とか人道的なモノなんかじゃない。 少なくともオイラには普遍的に通用しない理論だ。 オイラに出来るのは、毎日、感謝して命をいただきます、と口に出して、精一杯生きて行くだけなんだよ。”
はい、全くその通りです。
生きているということは、即ち、他の命をいただいている、ということなのです
全ての者に平等に命はあるのです
アニミズム的宗教感覚を保ったまま仏教を受容した日本人には、どの生き物も等しく命を持っているという感覚が自然です
欧米白人の、殺していい存在と、そうではない存在を平気で峻別して、殺していいと勝手に自分が判断したら殺しまくっても何の咎も感じない感覚は、日本人にはなじめないし、恐ろしく野蛮なものです
欧米白人で先住民族のほとんど全てを殺戮して大陸を占拠し自分のものにした南北アメリカ大陸とオーストラリアについて、罪の意識を感じる人など見たことがない 神と、神と特別な関係にある人間(白人オンリー)だけが尊重され、残りは有色人種も含めて全て自由に処分できるという、一神教独自の考えが日本人には絶対になじめません
そういう意味では、イスラムも日本とはかなり相性が悪いですね
日本のいい意味で大らかでいい加減な神仏習合の感覚が一番世界に平穏をもたらすように感じるんですがね
Source: nasaniel