「このままでは死ぬ」命懸けた隊員 自衛隊の「極秘作戦」11年経て明らかに #知り続ける(福島中央テレビ) – Yahoo!ニュース
「このままでは死ぬ」命懸けた隊員 自衛隊の「極秘作戦」11年経て明らかに #知り続ける(福島中央テレビ) – Yahoo!ニュース:
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最大で16万人の住民が避難を強いられた11年前の福島第一原発の事故。相次ぐメルトダウン、水素爆発…東日本に人が住めなくなるとまで予測された戦後最大の危機だった。暴走し続ける原発を誰が最後に鎮めるのか…。最悪のシナリオを描き、極秘に準備をし、命を懸けて使命を果たそうとしていた人たちがいた。それは、国の防衛を主任務とする実力組織「自衛隊」だった。
東日本大震災発生…福島へ向かった自衛隊員たち
2011年3月11日、M9の巨大地震とその後の大津波により、東北で甚大な被害が発生した。しかし、すぐには被害の全容は掴めなかった。放射線に関する知識を叩き込まれた自衛隊の専門部隊「中央特殊武器防護隊」の岩熊真司隊長(当時49歳)は「福島の原発が危機に陥る可能性がある」と異様な緊張感を抱きながら大宮の駐屯地で待機していた。
その頃、カリブ海に浮かぶハイチ共和国にPKOで派遣されていたのが陸上自衛隊の田浦正人副司令官(当時49歳)。「本当にこれは日本なのか…」と、田浦は日本が津波に襲われる映像を何度も見返した。田浦はイラク戦争後の現地隊長を務め、迫撃砲を打ち込まれながらも、武装勢力と対峙し、日本人の拉致事案にも対処した経験を持つ。命令を受け、田浦は急遽日本へ戻った。
「爆発はしないだろう」隊長の判断
12日未明、岩熊の部隊200人が政府の命を受け福島の原発に向け出動した。移動中、1号機の水素爆発の一報が入ってきた。それでも、岩熊は冷静だった。
「漏洩している放射線がどれだけ強く、何時間作業ができるのか、それを考えていた」
部隊は14日の朝に第一原発へ到着。皆一睡もしていなかった。構内の対策本部では、東電幹部たちが血相を変えて対応にあたっていた。岩熊らは防護服などに着替え、圧力が上昇していた3号機に冷却用の水を運びに向かった。岩熊は2度目の爆発はないと考えていた。
「水素を抜いておけば、もしくは窒素を入れておけば爆発はしない。当然そうしているだろうなと思っていた」
岩熊は6人の隊員と、給水用のタンク車とジープで3号機に慎重に近づいていった。ジープを運転したのは岩野誠隊員(当時30歳)。爆発した残骸などが散乱している現場に息をのんだ。身につけた線量計に目をやると、みるみる数値が上がっていた。「気持ちが悪かった」。岩野は実際に数値が上がるのを初めて見た。
轟音…降り注ぐコンクリートの塊
岩熊たちが3号機の給水ポイントに着き、車を降りようとした時だった。轟音と共に地面が揺れた。岩熊は咄嗟に防御態勢をとった。
「目の前は灰色になって視界が見えなくなってしまった」
一瞬の静寂の後、真上から雨のようにコンクリートの塊が降り注ぎ、車両を破壊していった。岩野はその直撃をくらい、腰の骨が折れた。さらに、出血を伴なう傷を負う。岩野は車両のドアを蹴破り、退避しようとした。
「このままでは死ぬと思った。」
その時、咄嗟に、携帯していたデジタルカメラを取り出しボタンを押した。記録しなければと思ったという。この一瞬で岩熊らは20ミリシーベルトを超える被ばくをしたという。
(※一般人の年間の許容量は1ミリシーベルト)“調整機能”なく混乱 異例の政府命令で自衛隊が束ねることに
その後、4号機でも水素爆発が起き、2号機からは膨大な放射能が撒き散らされた。現場には、自衛隊のほか、警察庁、消防庁、東電、経産省など様々な組織が入り、冷却作業や電源復旧作業にあたっていた。しかし、その効率は甚だ悪かった。それを政府に指摘したのが、ハイチから帰国し福島県庁に派遣されていた田浦だった。
「それぞれの指揮系統で動いていて、現場に調整機能がなく混乱していた」
「自衛隊がそれぞれの組織を束ね一元管理をせよ」と政府から命令が出され、田浦がその任務を引き受けることになった。軍部の暴走で敗戦した太平洋戦後、自衛隊が複数の組織を束ねることは避けられてきたことだ。前線基地があるJヴィレッジへの移動中、田浦は一人悩んでいた。
政府の指示を跳ねのけた田浦の“現場判断”
Jヴィレッジに着き、田浦は最初の会合で、各組織の幹部たちが怪訝に見つめる中、末席に座りこう言った。
「皆さんを指揮するつもりは毛頭ございません。私は調整役です」
すると、張りつめた空気が緩んでいった。しかし、すぐに大きな問題が発生する。東京消防庁のハイパーレスキュー隊が冷却機能を失った使用済み燃料プールへ直接注水しようと現地入りしていたが、海水を汲む岸壁までのルートが定まらず難航していた。プールの中にある大量の核燃料がメルトダウンすれば、東日本に人が住めなくなり壊滅すると、政府は予測した。「自衛隊が放水すればいいじゃないか」と政府から指示があったが、田浦は連絡線用の電話を取り、こう言った。
「自衛隊が数十トンの水をかけるより、消防の成功を信じて待つ方がいいと思います」
針の筵で隣で話を聞いていた消防庁の幹部は受話器を置いた田浦とがっちりと握手を交わした。その後、ハイパーレスキュー隊は人力でホースを岸壁まで運び、放水に成功する。2日間で2490トンを放水し、東日本壊滅の危機は回避された。
原発内の人たちのため動き出す自衛隊
第一原発の状況はテレビ会議システムを通して、様々な機関と共有されていた。田浦は画面を通して、第一原発の吉田昌郎所長のことを知った。吉田は東京の対策本部から出される無謀な指示には断固として反発し、現場へ応援を出すよう何度も訴えていた。
「ただ水入れりゃいいと思ってたのかよ!周りで我々見てんだぜ、それでまた爆発したら死んじゃうんだぜ!」
「ここの現地本部、もう6日間徹夜の人間だけでやっておりますので、是非とも本店の人的な支援を!」
電力会社という巨大な組織で、上司に立てつき、部下を守ろうとするリーダー、田浦にはそう見えた。
改造した戦車やヘリを極秘に配備していた/Jヴィレッジ(福島県楢葉町・広野町)
「孤独に耐えて踏ん張っている素晴らしい指揮官だ…」
イラク派遣隊の隊長時代、迫撃砲を打ち込まれる中、現地の復興支援も続けなければいけない。犠牲者を出せば、PKO派遣というプロジェクトにも大きな影響を与えかねない。それでも田浦が最優先したのは「部下を生きて日本に帰す」ことだった。「リーダーにしか分からない重圧がある」。かつての自分を吉田に見た田浦は岩熊たちの部隊とともに秘密の作戦を計画することになる。
体制の綻び…4.11巨大余震
4月11日午後5時16分、震度6弱の余震が発生、原発は外部電源を失った。さらに、田浦たちがいるJヴィレッジと第一原発との通信が遮断し、原発の状況が掴めない事態が発生した。田浦は張りつめた気持ちで一報を待った。しかし、現地からの連絡は一切来なかった。電源や通信は1時間ほどで回復したが、田浦はこの事態を重く受け止めた。
吉田所長の涙
数日後、田浦は吉田の元へ乗り込んだ。出迎えた吉田は田浦を見るなり頭を下げ、謝罪した。3号機爆発で隊員たちを負傷させたことを心苦しく思っていたという。悲壮感漂う吉田にあえて田浦は笑顔を見せ「私はきょうホットラインを結びに来たんです」と伝えた。
そして、その前提となる秘密の作戦を吉田に告げた。「ガレキを撤去できる改造戦車、多くの人を乗せることができる改造した装甲車、そしてヘリも準備しました。原発で万が一のことがあれば、皆さんを助けるられようにしております」
田浦をぎょっとして見つめる吉田。最悪の場合、死ぬ覚悟で原発内に踏み止まろうと決めていたからだ。自らの命も顧みず、原発にいる作業員たちを助けようとする人たちがいることに、驚きを隠せなかった。田浦は続けた。
「4月11日のような不測の事態が起きた時、ホットラインですぐに連絡してください。吉田さんから連絡があって来てくれとなったらすぐ行きます。吉田さんから連絡があって大丈夫だと言われたらもちろんそこで終わりです。3つ目が大事で、吉田さんから連絡がなかったら私は見切り発車をします」
田浦は戦車や装甲車の進入ルートや、ヘリを降ろす場所など具体的な計画を吉田に告げた。必死に聞き入る吉田を見て、田浦は「なぜ一人の民間人がここまで背負わなければならないのだろう…」と思った。田浦は帰り際、「二人きりで話しませんか?」と吉田を小部屋に誘った。しんと静まる部屋で田浦が切り出した。
田浦「何が一番不満ですか?」
吉田は少し間をおいて、潤んだ目で答えた。
吉田「…みんな他人事なんです。頑張れ頑張れというだけなんです。でも、私たち現場は頑張れの限度を超えているんです。みんな他人事だなと思っていたところ田浦さんたち自衛隊が自分たちのことをここまで考えてくれているのが嬉しい…」
そして、吉田の目から涙がこぼれ落ちたという。
その年の冬、原発は「冷温停止状態」になった。そして、吉田は事故の収束を見届け、所長を退任した。ガンを患っていたのだ。2年後の2013年7月、食道がんのためこの世を去った。
「日本の分断」も想定 自衛隊“最後の極秘作戦”
自衛隊には、田浦たちの秘密の作戦の他に、実はもう一つ、自衛隊幹部の数人しか知らない極秘の作戦があった。
原発の暴走が食い止められず、田浦たちの作戦が実行された後、誰もいなくなり、放置された原発を一体誰がどうするつもりだったのか…。去年7月、記者は田浦に尋ねたが、「答えられない」とだけ返事が返ってきた。
それから2カ月後、記者は都内である人物と対面していた。原発事故当時の自衛隊のトップ、折木良一元統合幕僚長。柔和な笑顔が印象的な一方、約23万人の自衛官のトップを務めた日本の「将軍」。記者は「福島県民の一人として、知らなければいけない」と前置きし、田浦の作戦後のことを尋ねた。折木元統合幕僚長「水と砂を混合し、コンクリートに近いようなものを一基あたり約1000トンを原発内に注ぎ込めるよう整備していった。命をかけてやらないといけなかった。そうしなければ、日本が分断されてしまう」
崩壊した原子炉と建屋をコンクリートで丸ごと覆い封じ込める「石棺」は1986年に起きたチェルノブイリ原発事故で実行された。ただ周辺地域には巨大な放射性廃棄物が居座り続けることになり、住民の帰還は望めない。福島でも「石棺」作戦が検討されていたのだ。原子炉建屋と同じくらいの高さまで注水口が伸びる大型コンクリートポンプ車を使い、安定的に原発にコンクリートを供給できる体制を整備する予定だった。それは、隊員の被ばくを抑えながら、原子炉を鎮める、現実的な作戦だった。
廃炉という“未来”
福島第一原発では今、溶け落ちた核燃料「デブリ」を取り出す「廃炉」作業が続いている。それは30年も40年もかかる巨大なプロジェクトで、政府、東電、国内有数のゼネコンやメーカーなど日本の技術力を総結集して挑んでいる。
事故から11年が経つが、デブリの取り出しが今年ようやく試験的に始まるほどの進捗だ。壁は途方もなく高い。ただ、日本は幸いにも「石棺」ではなく「廃炉」の道を歩んでいる。それは、住民を帰還させようという道だ。故郷を諦めず、「未来」へつながる道だと信じている。